高はしがくしゅう塾ブログ

塾長のブログです

ウォーキング

自宅から2,3分のところに、白石城跡、益岡公園がある。標高80mあまりの丘で、木造再建された白石城天守閣を中心にしたきれいな公園である。わが女房殿の退院後、リハビリの一環として二人で一時間ほど公園をウォーキングしているのだが、濠沿いの土手にかたくりの花やら白や紫の一輪草が可憐な姿で咲いているを見つけたときにはうれしい限りであった。市街地でそんな素敵な出会いがあるなんて、なんと贅沢なことだろう。小さな田舎町の平凡な日常でも、考えようで、あるいは価値観の持ち方次第で、人生はなんとすばらしいものに変容することか。山野草のそこに存在してくれていたことに、深く深く感謝である。

子供たちも、点数や順位にあまりとらわれすぎることなく、あるいは損得ばかり計算することなく、大人に媚を売ることなく、山野草のように可憐に成長してもらいたいものである。

やっと退院です

昨年12月中旬、女房殿が交通事故に遭遇、左ひざの粉砕骨折並びに骨盤の亀裂骨折2カ所、さらに頬骨の亀裂骨折の重傷を負い、入院しました。折りしも冬期講習の時期と重なり、大変な思いをしたのですが、講習会も大過なく終了し、また、女房殿の手術後の経過も順調で、今度の土曜日に退院となる予定です。つらいリハビリだったことと推察しますが、本人は余計なことは言わずに、明るく、けろっとした表情で取り組んでいました。昔からそういう人だったということを改めて実感しました。お孫もその期間でずいぶん大人になったようです。ご飯をよそったり、おかずを電子レンジで温めてくれたり、頼りになりました。家族というのは不思議なものです。普段は自分勝手、わがままの言い放題なのですが、何かあると見事なまでに結束するものです。実感しました。そして、家族に感謝いたします。

学力低下

当塾の学習状況は順調である。11月の学校での実力テスト、当塾の中3生は白石中、学年1位、白石東中、学年1位、福岡中、学年1位と市内の主要中の一位を独占した。生徒たちのがんばりに敬意を表する次第である。当塾の学習システム、あるいは心を大切にしたクラス作りなど、子供たちの学力形成に一定の効果を上げているのは、自明のことであろう。塾として万々歳である。

しかしなのだ。おいおい、ちょっと待てなのである。ひとつの塾でこの結果はどうもこなれがよくない。きっと何か原因があるに違いない。ひとつはスマホの使用に代表されるデジタルのコンテンツとの付き合い方が上げられよう。当塾では使用の制限を申告した生徒には割引制度を設けている。それが生活の乱れの歯止めになっていれば、うれしい限りである。人間は便利だと駄目になる生き物だと思っているので、大人になるまでは、できるだけ便利なものを遠ざけて生活すべきである。カーナビに頼れば地図の見方もわからなくなってしまう。そんなことすら危惧されるのではあるまいか。

次に、授業の進め方の問題。黒板の板書を生徒たちはきれいにノートする。しかし、現実には家に帰って彼らはノートを見はしない。昔のままに授業をしているが、これでは学力は期待できない。今の生徒に合った指導法の確立が望まれる。さらに宿題。答えを写して提出する生徒が多いのだから無意味である。塾も学校も変革の時と言えよう。先生の一人ひとりが自分で指導法を考えるべきであろうと思うのだが、どうだろう。

自塾の好成績を前にして、そんなことを考えてしまった。

 

 

家なき子ならぬ知恵なき子

「一度しかない人生だから子供の思いを叶えてあげたい」と、真面目に語る親が多いらしい。物分りのいい、愛情に満ちたすばらしい親のように思われるが、果たしてどうだろうか。子供の進路や将来への希望が間違っているとすれば、実は前述の親の言は間違いを追認し、何もしないという姿勢以外の何物でもない。親の責任とはそんなものではないと私は思っているので、違和感を感じるばかりである。大丈夫かな?

子供たちに将来どんな職業に就きたいかを聞いてみた。保母さん。看護師。先生、そして親の職業など今まで自分の周りにいた人たちの範囲である。昔はいろいろな子供たちがいたものである。パイロットとか医師とか新聞記者とか外交官とか、様々であった。比較すれば、今の子供たちが、隔離された小さい世界の中で、物事を夢想することもなく、平板な日々を送っていることが見えてこよう。便利になった世の中が彼らから想像力を奪ってしまい、その結果彼らは感動すらない世界を機械的に生きているように思われる。彼らの笑いはせつな的でさえある。

さて、そんな彼らが受験勉強に取り組むとどうなるか。まず、答えを覚えようとする。次に自分の好きな科目、解ける問題をやろうとする。解ける問題は本来しなくてもいいはずだが、彼らには、考えることが苦痛でしょうがないのである。実力がつくまで、何ヶ月か解法のシステムを考え、一歩一歩坂道を登るように耐えて学習するのが苦手なのである。逃げ道を考える生徒もいるかもしれない。厳しい将来になるかもしれない。残念なことである。

ゲーム、スマホSNS。便利さが子供たちから知恵を奪ったのかもしれない。家なき子ならぬ知恵なき子である。しかし、まだ間に合うのである。親が子供の真の姿に真摯に向き合い構造的な弱点をともに克服しょうという姿勢さえあれば何とかなるものである。親子とはそういうものだ。期待したいものである。

 

いまどきの営業気質

いつのころからか若い営業さんに会うのが苦手になった。違和感がある。塾という商売は仕事上お付き合いのできる業者さんは多くはない。まあ、事務機関係や教材やさん程度である。私どものような田舎の学習塾は規模もそんなに大きくはないし、したがってお付き合いのある業者さんも数えるほどである。そんな狭い世界だけれども、この2、3

年若い営業さんに担当が替わるにつれて、違和感が生じているのである。彼らが仕事に熱心でないというわけではない。適当というわけでもない。万事マニュアル化しているとでも言えばいいのか、まず各社訪ねてくる時期が同じである。したがって、その時期には毎日どこかの社の営業さんとお会いすることになる。これけっこうつらい。さらにはそれ以外の時期はまったく来ない。顧客との付き合いとはそんなものではない、と思うのだが、どうだろうか。もしもお客に伝えたい情報があるとすれば、時期は関係ないはずだが、不思議なことである。

たぶん、彼らにとっては顧客は二の次で、会社と自分の関係を第一義的に考えているのであろう。それでもっとも効率的な動きをどの社の営業さんも選択し時期がかぶるのではなかろうか。人間としての付き合いを大切にしたい昔人としては、はなはだ残念である。もっと大きい絵を描きたいものである。

恐怖のデジタル脳

 例えばカーナビを使うことを考えよう。自分の現在地、進行方向、目的地が表示され、間違いなく目的地に到達できる。便利なものである。科学技術の進歩は事ほど左様にすさまじいものがあり、今や人工頭脳の登場も時間の問題である。さて、そこでなのだが、これって本当にいいことなのだろうかと一抹の不安を覚えるのは、私だけであろうか。私たちのコアの部分に近い何かが奪われかけているのではないかという不安である。私はドライブが好きである。事前に地図であっさりと目的地までの道程を確認し、出発する。川筋や山で現在地をアバウトに確認しながら、気分で車を走らせる。横道大歓迎。細い道もちゅうちょしない。失敗も多い。遠回りなどはよいほうで、ある時は農家の玄関で行き止まりというのもあった。ストレスに感じる向きも多いと思うが、予想しない発見や出会いがあるので、私は死ぬまでこのやり方を止められまい。山の中の小さなクリーク、巨木の森、親切に道を教えてくれたおばあさん、廃校の木造校舎。素敵なものにいっぱい出会った。カーナビは便利さと引き換えにそんな偶然の出会いを人から奪ってしまうのかもしれない。

 教育に関してはどうだろうか。デジタルな時代を生きる子供たちはすぐに答えをほしがる傾向にある。道筋を立てて考えるのが苦手なようである。周りがこれだけ便利であれば勉強だけが便利でないのは彼らには耐え難いことなのだ。彼らはパターン化が好きである。無味乾燥な単語の暗記に修行僧の如く励む。一方で証明などの論証問題は苦手である。折角の英語のテキストも読んで訳すことをせず、テストのために配布された訳を覚えるのだ。これでは思考力は養成されないし、コミュニケーション能力にも不安があろう。まずは教科書をきちんと読むことから始めてはどうだろうか。すぐに点には結びつかないかもしれないが、いっぱいいいことがあるはずだ。回り道をすることは悪いことではない。予期せぬ、偶然の出会いこそ人生の醍醐味と言えよう。当塾では自立した人格の形成を目標としている。成績は勿論よいにこしたことはない。だが、成績は決して人間の生きる目的にならないのは自明のことである。成績が評価されるのは大学入試までであり、大人になって成績を自慢する者など、自分が一生懸命に取り組むべき大切な何かに出会えなかった不幸なやつということになる。だから勉強はおもしろい。知らないことを知るのは楽しい。できなかったことができるようになったのは快感である。生徒たちにこんな風に考えてもらえれば、うれしい限りである。

ゴールデンウィークを過ぎて

新年度もゴールデンウィークを過ぎると落ち着いてくるものだ。毎年のことである。生徒たちは新しい学年に慣れる。そして、自分もまた新しい顔ぶれに慣れる。お互いの顔が見えるのが、小規模学習塾のよいところである。指導するとか導くとか躾けるとか言うのではなく、いっしょに生きているという感じが濃密に漂う空間がある。それがいいのだ。だからこそ、長年塾を続けてくることができたと思っている。泣くのも笑うのもがんばるのも、できるだけいっしょにやっていこうと思う。さて、生徒の会話で小耳に挟んだのだが、どうやら、厳しい先生、怖い先生とネガティブな印象操作をしている同業者がいるらしい。確かに顔は怖いかもしれないなあ。これは否定できない。現実としては、中途退塾者は圧倒的に少ないのだから、自分としてはこれまでどおりのやり方でよいと思っている。ただ、会ったこともない人につまらないことを言われるのは、やはり、いい気持ちはしない。だから、当塾の生徒たちに聞いてもらえればよい。つまらぬ詮索など何の役にも立たない。生徒たちから、確かに厳しいし、怖いけど、でも何か楽しいという答えが返ったら、うれしい限りである。