高はしがくしゅう塾ブログ

塾長のブログです

恐怖のデジタル脳

 例えばカーナビを使うことを考えよう。自分の現在地、進行方向、目的地が表示され、間違いなく目的地に到達できる。便利なものである。科学技術の進歩は事ほど左様にすさまじいものがあり、今や人工頭脳の登場も時間の問題である。さて、そこでなのだが、これって本当にいいことなのだろうかと一抹の不安を覚えるのは、私だけであろうか。私たちのコアの部分に近い何かが奪われかけているのではないかという不安である。私はドライブが好きである。事前に地図であっさりと目的地までの道程を確認し、出発する。川筋や山で現在地をアバウトに確認しながら、気分で車を走らせる。横道大歓迎。細い道もちゅうちょしない。失敗も多い。遠回りなどはよいほうで、ある時は農家の玄関で行き止まりというのもあった。ストレスに感じる向きも多いと思うが、予想しない発見や出会いがあるので、私は死ぬまでこのやり方を止められまい。山の中の小さなクリーク、巨木の森、親切に道を教えてくれたおばあさん、廃校の木造校舎。素敵なものにいっぱい出会った。カーナビは便利さと引き換えにそんな偶然の出会いを人から奪ってしまうのかもしれない。

 教育に関してはどうだろうか。デジタルな時代を生きる子供たちはすぐに答えをほしがる傾向にある。道筋を立てて考えるのが苦手なようである。周りがこれだけ便利であれば勉強だけが便利でないのは彼らには耐え難いことなのだ。彼らはパターン化が好きである。無味乾燥な単語の暗記に修行僧の如く励む。一方で証明などの論証問題は苦手である。折角の英語のテキストも読んで訳すことをせず、テストのために配布された訳を覚えるのだ。これでは思考力は養成されないし、コミュニケーション能力にも不安があろう。まずは教科書をきちんと読むことから始めてはどうだろうか。すぐに点には結びつかないかもしれないが、いっぱいいいことがあるはずだ。回り道をすることは悪いことではない。予期せぬ、偶然の出会いこそ人生の醍醐味と言えよう。当塾では自立した人格の形成を目標としている。成績は勿論よいにこしたことはない。だが、成績は決して人間の生きる目的にならないのは自明のことである。成績が評価されるのは大学入試までであり、大人になって成績を自慢する者など、自分が一生懸命に取り組むべき大切な何かに出会えなかった不幸なやつということになる。だから勉強はおもしろい。知らないことを知るのは楽しい。できなかったことができるようになったのは快感である。生徒たちにこんな風に考えてもらえれば、うれしい限りである。

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ゴールデンウィークを過ぎて

新年度もゴールデンウィークを過ぎると落ち着いてくるものだ。毎年のことである。生徒たちは新しい学年に慣れる。そして、自分もまた新しい顔ぶれに慣れる。お互いの顔が見えるのが、小規模学習塾のよいところである。指導するとか導くとか躾けるとか言うのではなく、いっしょに生きているという感じが濃密に漂う空間がある。それがいいのだ。だからこそ、長年塾を続けてくることができたと思っている。泣くのも笑うのもがんばるのも、できるだけいっしょにやっていこうと思う。さて、生徒の会話で小耳に挟んだのだが、どうやら、厳しい先生、怖い先生とネガティブな印象操作をしている同業者がいるらしい。確かに顔は怖いかもしれないなあ。これは否定できない。現実としては、中途退塾者は圧倒的に少ないのだから、自分としてはこれまでどおりのやり方でよいと思っている。ただ、会ったこともない人につまらないことを言われるのは、やはり、いい気持ちはしない。だから、当塾の生徒たちに聞いてもらえればよい。つまらぬ詮索など何の役にも立たない。生徒たちから、確かに厳しいし、怖いけど、でも何か楽しいという答えが返ったら、うれしい限りである。

いよいよ入試だ

いよいよ3月、高校入試本番である。生徒全員ががんばってよい結果を出してもらいたいものだが、今年は白石工業の倍率の高さが気になるところである。宮城県の郡部の学力が年毎に低下しているのは確かである。白石高校の倍率の低さがそれを物語っている。今の子供たちは精神的に幼く、高校の違いがよくわからないのかもしれない。教科書の難易度が学校によって違うのだから、その後の人生にも高校選びは大いに影響があるのが考えられないのである。中には目標を失い、勉強から逃避しかけている生徒もいるだろう。その意味で、毎年のことだが、今の時期、自分には忸怩たる思いがある。反省がある。自分の力のなさにくやしい思いがある。次年度にそれをばねとして生かさなければなるまい。今はただ発表の日に生徒全員が笑顔で合格を報告してくれることを祈るばかりである。あの笑顔がいいんだよなあ。がんばれ受験生。

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冬期講習を終えて

1月の新みやぎ模試の結果がでた。冬期講習がどの程度効果を発揮したか、楽しみにしていたのだが、ある意味で満足であり、またある意味では不満の残る結果であった。成績は全般的に言えば伸びている。当塾の指導の進め方、指導時間の設定など、あり方としては正しい方向に向かっていることの証左である。よその塾からすればうらやましい限りの結果であろう。何しろ中2を例にとれば塾平均が県平均+20点、5教科合計450点のところに3人いるのだから・・ 

しかし、留意すべき点がある。点の伸びが生徒個々人で違うところである。伸び悩む生徒のケースは、勉強というよりもその原因は生活習慣にある。あるいは倫理観にある。

成績の奥に生徒各自の私的な、精神的世界が広がっている。ここにアプローチしなければ真の解決はないと思うのだが、本音を言えば「重いなあ」である。私塾という何の権威もない自分が向き合うには、なかなか骨の折れる課題だか、せめて通塾してくれる生徒たちには目いっぱいのエネルギーを届けたいと思っている。

いよいよ入試本番だ。がんばれ中3生。

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世の中ゆるずきやしないか

何も考えない子供たちが増えている。だいじようぶかなあ、と思う。流行が人間から人格を奪うと、誰かが言っていたような気がするが。スマホ片手に、ザックをわざと腰まで下げて、だらだらと歩く高校生を見ていると、苛立ちを通り越して、悲しさすら感じてしまうのは、自分が単に年老いたからとばかりとも言えまい。生きている感じが希薄に思えてならないのだ。今の世は選ばなければ勉強しなくとも大学に行けるし、そりゃあモチベーションも沸かないだろうよ。けどな、生きるということは君たちが思っているよりもずっと大変なことなのだ。たとえば、本気で恋愛をしてみればわかることだ。相手は決して自分の思い通りにはならないぞ。濃密な心と心のやり取りが不可欠なのだよ。あるときは慰めあい、また、あるときは喧嘩をして大声でののしりあう。いろんなことがあるのだよ。それでもなんでかわからないけれど、離れがたい思いが二人をつないでいる。それが恋愛なのだよ。それはすごいことなのだ。だから、一生懸命に生きること、一生懸命に勉強することが大切だ。ダラッと生きて恋愛はむずかしいぞ。がんばれ。諸君の奮闘を期待する。

冬期講習の季節

 教科書がむずかしくなったからなのか、あるいはスマホの普及のせいなのか、はたまた、保護者や先生がゲーム世代になったせいなのか、正しいところはわからないが、学力低下が猛烈に進んでいることは事実である。いくら全国一斉学力テストの結果で歯止めがかかったと発表してもむなしいばかりである。たぶん教育の世界の底辺のそのまた隅っこで指導に携わっている者の皮膚感覚が、そのように感じさせているのだ。しかも、この問題は早急に対策を講じるべき事案である。実力テストの学年平均が30点下がるって、それはダメだろう。子供たちのせいにしてはいけない。責任は大人にもあるのである。塾も含めて大人はみんな反省し、子供たちに謝らなければならないのではなかろうか。幸せな未来を構築するには、確かな学力と愛他心が不可欠である。それを育むのが教育であるはずなのだが、現状はどうであろうか。学力がただ点を取る技術としてのみ考えられているのならば、それはとても哀しいことである。

 当塾では自立した人格の形成を目標としている。成績は勿論よいにこしたことない。だが、成績は決して人間の生きる目的にならないのは自明のことである。成績が評価されるのは大学入試までであり、大人になって成績を自慢する者など、自分が一生懸命に取り組むべき大切な何かに出会えなかった不幸なやつということになる。だから勉強はおもしろい。知らないことを知るのは楽しい。できなかったことができるようになったのは快感である。生徒たちにこんな風に考えてもらえれば、うれしい限りである。人と自分を比べて、ああでもない、こうでもないと、つまらないことを言っても、自分は進歩しない。自分の心にエネルギーを蓄えて、自分の興味のある世界の入り口を探すことこそ肝要である。塾はそのための修練の場でありたい。

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印刷機が教師から言葉を奪った

当塾でも使っているが、リソグラフという印刷機は大変便利なものである。安く、早く、そして簡単に多量の印刷物を作ることができる。昔はガリ版印刷で手作りだったから、製作に時間がかかり、大変だった。だが、あの鉄筆で文字を書くときの、カリカリという音は、今考えると何とも言えないいい音だった。仕事をしているという実感があった。そこには昭和の人間くさいよき時代があった。

さて、今である。簡単に作れるので、生徒の学習用のプリントは異常なほどに多い。全部こなすのはむずかしい。解答も配布される。宿題などはうつす生徒も多いのではないだろうか。私は、問題を解くのが教育だとは思わない。それは教育の一部である。大切なことは、授業で先生が生徒たちに語ることである。内容は何でもよい。自分の体験したこと、簡単な人生哲学など、自分の言葉で語ってほしいのである。刺激を受けた生徒たちの世界は確実に広がり、自分の足で次のステップへと歩き出す。そこに教育の大きな役割があり、教える者の醍醐味もまた、そこにあると思うのだが、どうだろう。先生がただプリントを配り、生徒は静かに問題に取り組む。表面はよさそうだが、そこにはコミュニケーションがないのだから、果実も実るまい。

先生よ、がんばれ、熱く思いを語れ、である。